「人は何かに目を向けていても、意識的に見ているとは限らない。どんな瞬間にも眼の前の世界のごく一部しか認識していない」クリストファー・チャブリス,ダニエル・シモンズ
米海軍攻撃型原子力潜水艦グリーンヴィルに衝突されて9名が亡くなった悲惨な事故でした。発生が2001年2月9日なので、まだ記憶に生々しい事件です。(9.11もやはり2001年)
この事故を巡っては、様々な問題点が噴出しました。一般人を特別乗船客として乗船させるための航海であったこと。グリーンヴィルは乗組員が定員に満たない人数で出港したこと、えひめ丸の船体の構造問題、漁獲量偏重の練習航海の在り方、事故後の米海軍関係者への処分の問題等々。今回は「認識」の問題、最新鋭の米原子力潜水艦グリーンヴィルが、なぜえひめ丸の航行を認識できず、衝突してしまったのかに絞って観てみたいと思います。
2月9日の当日、米国原子力攻撃型潜水艦グリーンヴィルのミッションは、海軍のファンを増やすことを目的に一般人を乗せるいわゆる体験乗船会の実施でした。0757にパールハーバーを出港し、水上、水中の様々な航行で特別乗船客を楽しませました。そして、体験乗船会のクライマックスがその緊急浮上だったのです。
ワドル艦長は、急速潜行ののちに急速浮上を命じます。これは、潜水艦の艦首が大きく海上に飛び出すエキサイティングな演出なのです。(予定では)しかし、飛び出した海面にいたのは漁場に向かう途中であったえひめ丸だったのです。えひめ丸の船体は右舷から左舷にかけてグリーンヴィルのラダーによってざっくりと切り裂かれたのです。そして5分かからずに沈んでいきました。乗員、学生35名中26名はえひめ丸の救命ボートで助かりましたが、9名が亡くなりました。グリーンヴィルの艦橋とラダーは北極海の氷を砕きながら航行できるように強化されていましたから、それにぶつかると漁船などはひとたまりもないでしょう。
原因は?グリーンヴィルが水上にいる船舶を確認しなかったために事故が起こったのか?
いいえ、違います。衝突のわずか5分前に潜望鏡深度に浮上して、海上の様子を潜望鏡で監視した上で、急速潜行し、緊急浮上を行ったのです。しかし、その事前の潜望鏡の監視で、2km先を航行するえひめ丸に気付かなかったのです。
実に様々な錯誤が織り込まれて行きます。
時系列の推移と下の航跡図、深度図を合わせて見ていくと動きがわかりやすいと思います。
<両者の航跡図>
<グリーンヴィルの深度と航跡>
<時系列の推移>
0700 スローン航法士官は出港前の点検で、指令所のソナーモニターの故障を発見し、艦長に報告するが、何ら処置がされなかった。→本来なら出港を取りやめるべき重大な故障であった。
0757 出港、水上航行の際、スローン航法士官が潜望鏡で周囲を監視していた際に、もやが発生していた。船体の白い漁船の視認が困難であったがそれを報告しなかった。→えひめ丸の船体は白色であった。
1017 潜行開始
1143 コーエン当直士官として当直につく
1200 えひめ丸 パールハーバーを出港
1231 シークレスト火器管制官 えひめ丸(S13)の存在をソナーで探知。しかし、海
上の目標をはっきりさせるための航法の変更は要求しなかった。
1300 シークレスト火器管制官 探知目標評価作図の更新作業を中止した。観客が作図
台との間にいて邪魔だったため →これで海上の目標の位置の正確な特定ができ
なくなる。
スローン航法士官が、スケジュールの30分遅延を報告。
(えひめ丸まで13.7km)
1314 ワドル艦長 ソナー室確認(司令所のソナーモニター故障で確認できないため)
→この時点における海上の目標の位置がワドル艦長の想定・期待となった。
この時のソナー室の情報によると、北方に2つの目標。ワドル艦長は一つは西に行
く商船、もう一隻は釣りをしている小型船舶であろうと想定した。このときのえ
ひめ丸(S13)の解析結果13.7km
北方で北北東方向に遠ざかっているという誤った情報だった。
(えひめ丸まで8.5km)
1316〜25 上下運動
1325〜30 高速ジグザク行動
1331 ワドル艦長 急速潜望鏡深度浮上指示
コーエン当直甲板士官(中尉)規則に定められた潜望鏡深度に浮上する際に
必要な関係者の討議を招集しなかった。その結果,各員の情報の齟齬が修正
できなかった。
1335 コーエン当直甲板士官すべての海上目標の報告を各部署に求める。
マクボギニーソナー監督士官 新たな海上目標S14を報告
しかし、司令所のメンバーはソナーモニターが故障し、目標の番号も覚えて
いなかったので、以前からの2隻のうちの1隻と誤った認識のままだった。
1336 ワドル艦長 潜望鏡深度指示 5分以内で上昇指示(通常は8分必要)
(えひめ丸まで3.6km)
1337 えひめ丸(S13)のソナー解析結果が出る。
接近してくる(3.6km先)えひめ丸を表すS13の火器管制装置の解析結果が
出ていたにもかかわらず、シ ークレスト火器管制官は新たな海上目標であ
るS14の解析に夢中で気がつかず、報告しなかった。
(えひめ丸まで2.0km)
1338 潜望鏡深度到達(66秒間)
コーエン当直士官 潜望鏡で360°監視を3回行ったが、何も発見できなかっ
た。モニターには潜望鏡に波が打ち付けていた。「接近目標なし」と報告
ワドル艦長自ら潜望鏡で監視する。360°監視1回。2フィート艦位を上昇さ
せ、340°と20°方向を監視。 しかし、その方向は24分前1314にソナー室で
入手した情報に基づいた方位であり、直近の情報を火器 管制官に確認もし
なかった。最終は120°まで周回して何も発見せず。通常潜望鏡による監視
は3分間必要だとされているが、二人合わせて合計66秒しか見ていなかっ
た。えひめ丸のレーダー波も浮上中にキャッチされず。(原因不明)
1339 ワドル艦長 緊急潜行指示
1340 シークレストえひめ丸が接近し、距離3.6kmの解析結果に気付くが、潜望鏡
監視によって目標が視認されなかったことから、むしろ解析結果が誤って
いたと独断し、解析結果を無視した。
(えひめ丸まで距離914m)
1341 ワドル艦長 緊急浮上指示
1343 浮上衝突
様々な錯誤と怠慢が交錯していますが、急速潜行前の潜望鏡の監視によってえひめ丸を発見していれば、急速浮上は中止となり、事故は防げていたはずです。海中の潜水艦は盲目であり、ソナー(音波)でしか状況を把握できないからこそ、規則で潜望鏡による監視を義務づけているのです。1マイル近くにいた60mのえひめ丸を潜望鏡で見逃したのは致命的なミスでした。
では、何がそのミスを生んだのか?
ワドル艦長の潜望鏡をのぞき込む際の想定が問題だったのではないかと思います。「そのとき私は、ほかの船舶がいることを予想も期待もしていなかった。」ワドル艦長は、1314における自身のソナー室の情報から北方に2隻の船があると考えていました。(それはすでに24分も前のことですが、本人は直前のことと思っていたかもしれません。確かに24分などあっと間のことですから)ワドル艦長は、シークレスト火器管制官はソナー室と連携をとって探知目標評価作図を作成を続けている(はずな)ので、目標が近くにあれば報告があると考えていました。(シークレストはすでに1300に作図を中止していました。さらに、その後の火器管制機器におけるえひめ丸の接近情報をその確認すら取らずに、艦長の潜望鏡監視の結果を解析結果に優先させて、報告を怠りました)。
なぜ、確認をしなかったのか?
ワドル艦長は特別乗船客の前でカッコつけてました。宣言をしないままに当直士官を差し置いて直接指揮を執りました。しかも、30分以上スケジュールが遅れていることから無理な航法を選択した。だから、通常3分間は必要な潜望鏡監視をわずか66秒で終わらせたのです。
つまり、ワドル艦長は無意識ではありますが、すでに心理的に追い込まれていたのではないでしょうか。潜望鏡に何か映っていては困るのです。何も見えない(見たくない)想定で潜望鏡を覗いた。しかし、見えない想定なので、注意力はレンズの先には向いてなかったのです。
限られた注意力と怠け者の意識を傾けるには大きな努力が必要です。その努力するためには、自分自身に余裕がなければなりません。もし、自分にその余裕がなければ、誰かに指揮を委ねなければらならなかったのです。
クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズはこう書いています。
「人は何かに目を向けていても意識的に見ているとは限らない。どんな瞬間にも眼の前の世界のごく一部しか認識していない」ゴリラが見えないのと同じだというのです。我々の直観的な感覚とは大きなズレがあります。
認識は五感だけで行うものではなく、想定(心のありよう)、すなわち、自分の期待するものを脳に見せてしまうのかもしれません。それは認識の指向性と言えるかもしれません。
1マイルの距離にあったえひめ丸を見落としたワドル艦長の潜望鏡監視の事実は認識の指向性を裏付ける事実の一つと言えるでしょう。
今の認識が何を指向しているか、おそらくそれは無意識なのですが、時々それをおさえておく必要がありそうです。
<参考文献>
様々な角度からえひめ丸事件を解明した好著です。認識の指向性以外に様々なこの事件に対する指摘が なされています。
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