「労働し、施し、苦労を積み重ねて来た人生の終末点で私たちはその初めの時期に立ち返り、人生という環が完結するのである。」キューブラー・ロス
あなたは長生きするわよ...と妻には言われているものの、人生50年を経過すると、命には限りがあると思わないわけには行きません。
健康寿命はさらに短いのです。
付け加えると、妻からは体が元気なまま惚けられると大変だとも...
On Death and Dying
原題を直訳すると「死と終焉において」となるでしょうか。 die の進行形である dyingは日本語の臨終とはかなり違った語感があります。臨終というと、死に至るほんの間際のことを指していますが、dyingのスタートはいったいどこなのでしょうか。生まれた時から始まっていると考えることもできます。また、「死」は命が亡くなることですが、それは生死の境だけでなく、その死後の世界も含んでいるのでしょう。
宗教は生の世界と死の世界をつなぐ役割を果たしています。その宗教は死が終わりを意味するものではないと説いて来ました。死後の世界は、キリスト教では天国に召され、仏教では極楽浄土に行き、あるいは輪廻転生する。イスラム教でも天国と地獄があるようです。そうだとすれば、死はゴールではなく通過点であるはずです。 大昔から死への恐怖心を和らげる役割をしてきた宗教ですから、死が通過点であるというシナリオは当然でしょう。一方、宗教を信じない人にはまさにゴールなのかもしれません。 歳を取ると信心深くなるというのは死の恐怖が高まっているためなのでしょう。
しかし、通過点でもゴールでもそれはどちらでもかまわないのです。死後の世界は証明ができないのですから。 そこで、通過点であろうが、ゴールであろうが、どのようにすれば人間らしく、さらには自分らしく終焉を迎えることができるかが本書の課題です。
キューブラー・ロスはその研究から死に対する人の感情の変化を否認 怒り 取引 抑鬱 受容 希望というように変遷するとしています。その上で 家族、医療関係者などの本人以外の人々がどのように関わるべきかを説いています。 がんの告知が一般的になったのはキューブラー・ロスの影響が大きかったのでしょう。尊厳死、インフォームド・コンセントもそうかもしれません。彼女の投じた一石は医師と患者の立場を大きく変えることになったのです。
死を恐れる気持ちは誰もが持っているわけですが、死んでいないことが人間らしく、自分らしく生きていることにはなりません。自分自身がまさにそうなのですが、漠然と恐れ、漫然と生きている。 死への意識は、命という限られた時間の使い道を考えるにはよい端緒であると言えます。
自分らしいライフスタイルで生きることに努力する。それがなければ自分のライフスタイルを今決める。
死の準備をする時間が全くない場合も少なくありません。
がんなどは告知を受けてから死に至るまである程度の時間がありますが、災害、事故や脳溢血などは一瞬にして命を失ってしまいます。あっ!という間もないかもしれません。ですから、いうまでもなく普段から死への準備は必要であると言えます。
人生の時計の針を戻すことはできません。
それなら残された時間をうまく使わなきゃと反省です。
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