たまたま読んでいた「ブランド・ハイジャック」にミームという言葉が出てきました。同書に、ミームとは「アイデア全体を自らわからせるメッセージであり、一瞬で伝わるもの」とされていました。
いや、それは全く違っていてむしろ、「経験価値」 = 「ミーム」 なのではないか...
ミームとは、
人は永遠に生きたいと思っています。しかし、それができないのであれば、子孫(遺伝子gene)を残したい。人と書きましたが、実はその主体はgeneであってその宿る個体に自己の複製子を残すことを求めます。自己の複製子を残すことが生物の本性であるとされています。
リチャード・ドーキンスは進化は自然選択の過程において起きるとしたダーウィンの生物学を踏襲した上で、さらにミーム(文化的複製・模倣)が人間の進化に大きな影響をもたらしていると主張しました。人間は生物学的な遺伝子だけでなく、知識の遺伝子たるミームを残したがっていると。
一方、経験価値とは、
物質は溢れています。そして、消費には限度がないことに消費者は気づき始めています。消費すればするほど、新たな消費をしたくなり、それは必ずしも満足につながらないことが消費者にもわかってきました。そして、すべての商品・サービスは激しい競争の中でコモデティ化への道を歩みます。購買の決定の主導権は企業から消費者個人に決定的に移っています。そんな環境の下で消費者が求めているモノが何なのか?
その答えの一つが、「経験」です。
blog、twitter、Facebookにはその自分個人の「経験」を仲間「族」と「共有化」したいというメッセージに溢れています。この現象からも「経験」と「共有化」が消費者が求める解の一つであろうことは間違いありません。「共有化」は、ソーシャルメディアの出現によって仲間「族」の組成と情報の共有化が容易になりました。しかも、文字だけでなく、写真、動画、音声、音楽など五感に感じやすい(表現力に乏しくてもわかりやすい)レベルで可能になったのです。
あと必要なのは個人の「経験」だけなのです。この「経験」がなければ「共有化」すべきものもないわけで、結果として社会的動物である人間が最も好む仲間「族」づくりも不可能となってしまいます。
そこで、経験価値の満足はミームの要求の充足ではないかと思ったのです。個人が有すると言われる満足できる「経験」をしたい、さらにその「経験」を「族」と共有化したい。その「経験」を何かに残したいという想いは、ドーキンスのいう人間にそもそも備わっている知的遺伝子たる「ミーム」からの要求なのだと。経験価値の重要性が様々な書物から語られていますが、ミーム(人間の本性たる知的遺伝子)が個体に命じているからだと考えるのはどうでしょうか。
そして、今までは本を書く、作曲する、絵を描くなど特殊な能力がないと、文化的遺伝子を残すことができないと思われていましたが、今はソーシャルメディアの出現によって誰でも簡単にミームを残すことが可能となってしまったのです。(なってしまったという点が、それを必ずしも望んでいる人ばかりではないということから重要なのです。)
だからこそ、個人の「経験」を生み出すことに価値が出て来たと言えます。
個人的な感情である「経験」は個人本人にしかできないという特徴があります。 製品としての「経験」がない以上、消費者は経験を購入することはできません。買うことができない点が重要です。交換できないということなのです。従って、自分一人で経験を作り出すか、だれかに助けてもらわなければなりません。
カメラをはじめる人、家庭菜園をはじめる人、陶芸をはじめる人、小説を書きはじめる人など...一人でできるでしょうか?いいえ、何をやるしても一人ではできません。それは何事も先人の文化的な模倣の積み重ねだからであり、誰かの助けが必要なのです。ですから、「経験」は個人とそれを手助けする人(企業)の「共創」にならざるをえないのです。
従って、個人の「経験」を生み出す手助けは今後も大きなビジネスチャンスであり、人間社会の文化を飛躍的に向上させる社会的な意義のある事業ということができるでしょう。マスではなく、個人であるという方向の延長線上に個人の自己実現の経験価値をミームとして残すのです。
ソーシャルメディアは人間の知的遺伝子であるミームがその経験価値を発露させていると言ってもいいでしょう。ミームの爆発はこれからかもしれません。
ミームのお手伝いするビジネスがコモデティからの脱却の一つの道です。ミームは知的遺伝子の複製を個人に命じているのですから。
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