有名なゴリラの実験について掘り下げようと思って、チャブリスとシモンズの著書The Invisible Gorilla(邦題「錯覚の科学」)を手に取ってみました。ゴリラのみならず、直観の誤りに関するケースの具体性が秀逸です。訳者はintuitions deceive usを「錯覚」としていますが、私は「直観の誤り」と表現したいと思います。
さて、本題であるクリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズが行った有名な実験です。
ボールを何回パスできているか?というもの
知らない方はやってみてください。
しかし、その後に意外な質問が…
皆さんはいかがだったでしょうか?
判断の前提としての認識の脆弱性
我々は自分の周囲で発生している事象をすべて認識しているかのように振る舞っていますが、果たしてそうなのか…
認知心理学、行動経済学、神経心理学など糸口は様々ですが、この方面の研究がすすんできました。選択、意思決定の重要性はかねてから問われていたわけですが、意思決定をする前提もしくは根拠となる事実の認識にバイアスがかかっていたとしたら、正しい選択ができないのではないだろうか...そこで、意思決定の前提となる認識の意味合いが非常に重くなってきました。
注意力の限界
この実験のお題は、バスケットボールのパスを何回しているかを数えることでした。そのお題から視聴者が想定しているのはバスケットボールの動きだったのです。そこに限られた人間の注意力が注ぎ込まれていました。人間の注意力に限界があることを本人は認識していません。
想定外の事象
そんな際に、想定外なことが起きると...ゴリラの出現?
人間の直観は200万年にも及ぶ狩猟採集生活時代の経験がベースです。直観の「想定」は過去の経験を元にしており、それと関連づけて発生する事象の認識をしようとしているのです。想定していること、即ち自分(あるいはDNA)に経験があり、処理しやすい情報しか認識しようとしない人間。人間は認識したいことしか認識しようとしない。これが人間の認識のバイアスです。
認識と選択・判断の関係(確証バイアス)
認識を選択・判断の前提となるものと書きましたが、認識が今発生している事象を過去の経験をもとに解釈、意味づけすることであるとすると、それは前後の関係ではなく、むしろ一体に近いものなのかもしれません。直観の選択に合致した認識を求める。認識は直観を裏付ける理由探しだとも考えられます。認識と選択の境界が微妙ですが、直観(Fast)、認識それぞれに誤りがある可能性を考えておく必要があるのでしょう。
将来というゴリラ
気が遠くなるほど長かった狩猟採集生活時代は、基本的にその日暮らしでした。その日暮らしが延々と繰り返されたのです。食料は保存する手段も場所もないので、その日に食べる分だけ収集し、大型肉食獣からの逃げ足の速さ、他の種族との戦いにおける強さ、そしてセックスの上手な人間が生き延びたのです。その生き延びる要素のどれを取っても、つまりその日どまりのことだったのです。一日3時間も歩けば必要な食料にありつけたといいます。シンプルな生活のためにさほど多くの注意力を要しませんでした。マーシャル・サーリンズが書いた「始原あふれる社会」です。しかし、そのような長い狩猟採集生活に培われた直観が苦手なのは、将来を考えることです。具体的にはデータの収集と解釈、時系列なデータと将来の予測、確率などです。人間が、そのようなことを考えはじめたのはつい400年ほど前のことです。人間が有している直観は、現代を生きる人間にとってに的確ではないことがあるのです。
ゴリラで気付かされた人間の「将来」に対する認識
人間は、自ら複雑化させた世界によって、どの動物に比べても日々の生活に追われています。生物の頂点に立っていると言われる人間が最も余裕のない生活をしていると言っても過言ではありません。むしろ、カラスや猫の方が余裕があるように見えます。従って、注意力のほとんどが目先のことで費消されており、将来のことに注意を配分する余地は少ないと言えます。将来に配分されるとしても、来週の学校のテスト、今月の仕事の締切、ローンの支払い期日等近い将来に限られているのが現実です。これらが、バスケットボールだといえないでしょうか。複雑化した現代の社会には数えなければならないボールが多いのです。
将来の最後としての「死」
少し前から「死」の準備をする人が少ない理由は何だろうかということを考えていました。ベンジャミン・フランクリンは「人生で確実なのは死と税金だけだ」と言ったそうです。人間にとってその締めくくりとなる美しい終焉(Happy End)は望ましいことであるはずなのに、絶対間違いのない終焉に対してなぜ準備をしないのだろうと。
様々な切り口はあるでしょうが、ゴリラの観点で考えてみますと、一つ目は、今まで書いたように、日々の生活に手一杯で「死」まで考えている余裕がないということ。「死」(ゴリラ)はわかりきったことなのですが、ボールのパスで手一杯なのです。二つ目は、個体(我々自身)にとって「死」は理屈としてはわかっているものの、経験したことがないため、結果として想定外であることです。(だから生きているのですが)一度くらい死んで、痛い思いをして生きているのであれば(あり得ない話ですが)、二度と死ないように注意するのでしょうが... 三つ目は、DNAは個体を超えて生き、死なないという事実です。個体の死はプログラムされているかもしれませんが、死の準備をするところまではプログラムされていない。DNAのプログラムはDNAの生き残りのためのものであって、個体についてはその目的に必要な範囲でしかプログラムしていないのでしょう。個体にとってはそのようなDNAのプログラムも想定外と言えます。自分の面倒は自分(狭義の)で見なければならないのです。
様々な切り口はあるでしょうが、ゴリラの観点で考えてみますと、一つ目は、今まで書いたように、日々の生活に手一杯で「死」まで考えている余裕がないということ。「死」(ゴリラ)はわかりきったことなのですが、ボールのパスで手一杯なのです。二つ目は、個体(我々自身)にとって「死」は理屈としてはわかっているものの、経験したことがないため、結果として想定外であることです。(だから生きているのですが)一度くらい死んで、痛い思いをして生きているのであれば(あり得ない話ですが)、二度と死ないように注意するのでしょうが... 三つ目は、DNAは個体を超えて生き、死なないという事実です。個体の死はプログラムされているかもしれませんが、死の準備をするところまではプログラムされていない。DNAのプログラムはDNAの生き残りのためのものであって、個体についてはその目的に必要な範囲でしかプログラムしていないのでしょう。個体にとってはそのようなDNAのプログラムも想定外と言えます。自分の面倒は自分(狭義の)で見なければならないのです。
このように考えると、美しい終焉の準備には生物的な遺伝、直観を超えて、高度に意識的な思考(Slow)が必要とされると言えます。
ゴリラを「死」として意識することによって、健康と寿命の限界を意識的に捉え、目的を持って残された日々を過ごすことができるかもしれません。それが、知的な遺伝子(meme)を用いて進化してきた人類のさらなる飛躍の踏み台であるような気がします。
それは、遺伝子(gene)を超える個体の個性であり、個体が創り出すmemeだと思います。
その意味で「死」のゴリラは、memeを残そうというモチベーションの源泉にならないでしょうか。
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