NHKの大河ドラマを見ていたら、後白河法王が平清盛から孔雀の羽を献上され、大層喜んでいました。日本人の最高位の人物でも孔雀の羽の美しさに感動したのでしょうか。
美しい尾羽を持つ孔雀は雄でしょうか?雌でしょうか?
尾羽が美しいのは雄であって雌ではないのです...
孔雀図(円山応挙・画、江戸時代後期、MIHO MUSEUM所蔵)
法王ですら...であれば、孔雀の雌は美しい雄の尾羽にイチコロでしょう。
では、なぜ、孔雀の雌は美しい尾羽を持つ雄と番おうとするのでしょうか?
チャールズ・ダーウィンを悩ませた問題です。
2説あるといいます。
一つ目は、美しい雄の子は美しく生まれ、子もまた多くの雌に支持される可能性が高い。だから、自分の遺伝子を残す確からしさが高いというものです。
二つ目は、羽が美しくなるためにはテストロンというステロイドが必要なのです。しかし、このテストロンなどのステロイドは免疫力を低下させてしまう。免疫力が低下すれば、生存することは困難になります。
そこで、尾羽が美しい雄は、テストロンが多くても力強く生きることができることを証明しているのです。美人薄命とは嘘なのでしょうか...
どうやら、二つ目の説が有力なようです。
テストロンが多ければ、羽はカラフルとなり、大きく、歌がうまくなり、攻撃的になります。
雄は自分の子孫を残すために、自らの寿命を縮めても雌と番おうとする。そして予定通り、免疫力を低下させた雄は早く死ぬ。でも、子孫は残るのです。
人間においても、男の方が女よりも平均寿命が短い。幼児死亡率も男の方が高い。男の方が、生命力が弱いのは事実なのですが、その理由の一つがわかったような気がしました。
雄は自らの寿命を縮めてまでも雌にアピールしたい。それは個体が遺伝子の短期的なビークル(乗り物)に過ぎないという現在の生物学の原理を説得力のあるものとしています。ステロイドを使って、個体の寿命を縮めてまでも自己の複製子を残そうとする遺伝子の存在は日常の我々個体の常識を覆すものです。
冷静に見ると、個体には遺伝子の複製を完全ならしめるまでの生存がプログラムされているようです。人間であれば50歳前後。それ以降は、遺伝子には個体に生存し続けさせる理由がありません。むしろ、生殖能力を失った高齢者が数多く残る状態は自らの遺伝子にとって望ましいことではないかもしれません。
今生じている高齢化社会における世代間の競争の問題は、遺伝子と遺伝子から見放された個体との争いといえるかもしれません。
五十路の坂を越えた私はこれから自分の遺伝子と競争することになるのでしょうか?そう語っているのも個体ではなく、遺伝子が言わせているのかもしれません。
個体における二元論とでもいうのでしょうか?個体と遺伝子それぞれの視点から生きて行くのも面白いかもしれません。
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