どんな状況でも何か足がかりはある
The Life and Strange Surprising Adventure of Robinson Crusoe
Daniel Defoe
夏休みに自宅の本棚をひっくり返してみたら、懐かしい本がいくつか出てきた。その中の一冊がロビンソン・クルーソー
生き方を享楽的な生き方と保守的な生き方に分けられるとするとロビンソン・クルーソーは前者に属する人物と言えるだろう。享楽的とはおもしろおかしく暮らすというような意味で使われることが多いが、私は人生に変化を求める姿勢であり、変化を求め続けざるを得ない弱さとを表現する言葉として使っている。一方、享楽的に対する反対語を保守的とするのも適切ではないかもしれないが、保守的な人物は現状続行に安心感を覚え、変化に対して強くリスクを感じるタイプといえる。同じ人間においても双方の要素を有しており、時と場合によって濃淡がでる。
絶海の孤島にてひとりぼっちとなったロビンソン・クルーソーは28年間にも及ぶその生活にもやがて幸せを見いだすようになる。しかし、その享楽的な人格は一転して徐々に保守的になっていく。さらに長い自省できる時間の中で聖書(価値観)に傾注していくのである。救いは神、すなわち自分の中にしか見いだせないとデフォーは述べたいのか。
ロビンソン・クルーソーの生活描写は実に具体的で驚かされる。単純な島暮らしを長い時間の中で改善していく様はまさにデフォーが実際に体験したのではないかと思わせるようなレベルだ。何か創り出すためにはそれなりの時間が必要であることを改めて考えさせる。日頃あまりにも短い時間で何かをできると安易に考えすぎていないかと。
絶海の孤島におけるひとりぼっちは珍しいケースだと思われるかもしれないが、ロビンソン・クルーソーの人生は現代の我々の人生とさほど変わらないという見方もできる。問題は孤島でひとりぼっちなのか、孤島にひとりぼっちでいるわけではないが、他の条件がロビンソン・クルーソーと比してより厳しいという事柄はいくらでもあるだろう。ロビンソン・クルーソーは自殺しなかったが、現代は死因の3%が自殺であることがそれを物語っている。現代には大都会の中におけるひとりぼっちも少なくない。
ロビンソン・クルーソーは安定した生活を得てもすぐに変化を求める。結果として辛酸を繰り返しなめることになるが、いつも最後はHappy endである。享楽的な人間がいつもロビンソン・クルーソーのようにHappy endであることはないかもしれない。しかし、それは保守的な人生を送ればHappy endを迎えられるということを意味するものではない。
ロビンソン・クルーソーの享楽的な選択は、本人にあったものなのであろう。何を好むかは人それぞれ。自分の好む生き方を選択した方がよいだろう。人がなんと言おうと
しかし、享楽的な傾向を有する人間は「自分が持っているものの値打ちは失ってみなければわからない。」というロビンソン・クルーソーの言葉をどこか頭の片隅においておいた方がよいかもしれない。
コメント