ディエンビエンフーの二の舞は防げたか
そんな中で、インドシナ半島を植民地化していたフランスは太平洋戦争終了後に再びインドシナを植民地として再占領しようとした。しかし、彼らをベトナムにおいて待ち構えていたのはホーチミンだった。ベトミンとの戦闘は8年にも及んだ。最後に、1954年にディエンビエンフーの陥落によりフランスはインドシナから撤退を余儀なくされる。
一方、米国はいよいよベトナムに進出する口実(非共産化)を得て介入に乗り出していく。米国の大統領はアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと4名がこの問題に関わっている。結果からすると、ケネディが導火線を引いてジョンソンが着火させ、ニクソンが消化したと言えるだろう。
'The Best and Brightest' はピューリッアー賞受賞のハルバースタムの出世作。米国がどのようにしてベトナムの泥沼にはまって行ったかの詳細な記録である。
1954年当時米軍では、地上戦ではなく、空軍力によって戦争に勝てるとのニュー・ルックとの考え方が統合参謀本部内で支配的になっていた。第二次大戦におけるドイツ、日本に対する戦略爆撃、さらに原爆の保有から損害の多い地上戦で自国民を多数死傷させることなく戦争を遂行できるとのコンセプトである。空軍力に対する期待は高まっていた。ニュー・ルックは金さえあればできる戦争であり、戦争の垣根を低くする便利な理論であった。
ディエンビエンフーの戦いの当時、アイゼンハワーはフランスを支援するか否かの判断を迫られていた。国防総省は戦闘爆撃機40機の派遣を発表した。それに対して陸軍参謀総長であったリッジウエイ大将(右写真)は介入に反対する独自のレポートを提出した。その内容は、空軍力だけでは問題は解決できない。地上軍を派遣せざるを得なくなり、その場合に北ベトナムを掃討するのに必要な兵力を50万人から100万人(5~10個師団)とした。さらに必要なインフラ整備(港湾、道路、鉄道、電話線など)に膨大な費用がかかること。さらに、ベトナム人が政治的にベトミン側につくことを想定するとより戦争遂行が困難であることなどである。まさに、11年後の介入後の姿を正確に捉えていたといえるレポートである。軍人出身のアイゼンハワーはそのレポートにより介入を取りやめた。
リッジウエイ大将はニュー・ルックを危険視しており、「戦争は、とどのつまり地上で決着をつけなければならない」としていた。戦争の素人でも最後は歩兵が敵の陣地を占領するまでは決着が決まらないことを知っている。イラク、アフガニスタンにおける米軍の損害もほとんど地上部隊であり、ほとんど歩兵なのである。リッジウエイ大将は、米国のベトナムへの介入を回避したのである。しかし、11年間だけ。
その11年後の1965年にジョンソン大統領は正反対の判断を下すことになる。もう一人の将軍が登場する。マックスウエル・テーラー大将、リッジウエイ大将の教え子であり、第二次大戦時はリッジウエイが第82空挺師団の師団長、第101空挺師団の師団長がテーラーと同じような道を歩んできた。
1961年 テーラーはケネディに8,000名の戦闘員のベトナム派遣を勧告した。テーラーはリッジウエイとは反対に空軍力の効果を重視しており、ベトナムの国土も米軍の近代戦の遂行に大した支障にはならないと考えたのである。マクナマラ国防長官はその軍部の圧力に押されて、派兵に賛成する。しかも、8.000名ではなく、拡大の可能性を考慮して最大6個師団(30万人)にまで派兵を拡大する余地を残して。そして、ついにケネディは派兵にゴーサインを出したのである。
テーラーは空軍の派遣だけを考えていたようである。その後、テーラーは駐サイゴン大使に任命されるが、ベトナム駐留軍司令官であるウエストモーランドの地上部隊の増派に反対する立場に追い込まれる。そして、本格的な戦闘の開始とともにその地位を追われるのである。
一度コミットすると自身に責任が発生し、一貫性のテープが回り始める。本書はThe Best and Brightestでも一貫性のテープを止める選択が困難であること。さらに、The Best and Brightestだからこそ、一貫性のテープを止められないことを実証した。
さらに大統領を囲むホワイトハウスの人間関係と共同体的なチームが一層相互を縛りあって一貫性のテープを止めるのを妨げる。
リッジウエイが介入を止められたのは彼がベトナムにコミットする前だったからだとも考えられる。ホワイトハウスとの縁も薄かった。テーラーは蟻の一穴を掘ってしまって逃げられなくなった。ケネディ政権時から大統領の軍事顧問であり、メンバーと連判状を交わしていたようなものだった。
環境は変化を続ける。成功体験は自身に対する自信からその変化を過小評価するのかもしれない。ベトナム戦争はディエンビエンフーにおけるフランスの二の舞を米国が犯した戦争だった。
彼らが戦った理由はベトナムのためではなく、共産主義との戦いでもなく、国民のためでもなかった。助ける相手のいない戦いだったのだ。南ベトナムは国家の体をなしていなかった。
ひとえに、自分の敗北を認めたくなかった。それだけだった。
言い過ぎであろうか。しかし、その選択は破局的な敗北となったのである。自分自身がベトナムの熱帯雨林で戦わなければならないという前提条件をつけていれば、選択は異なったかもしれない。なんと言っても戦うのは他人なのである。戦費も自分の金でやるわけではなく、国民の税金なのだ。
日本でもそんな状態が垣間見れる。マニュフェストの呪縛にとらわれて、一貫性のテープを止められない政党。郵政民営化反対の政策が下ろせない政治家。組合、役所との付き合い方を変えられなかったJALなど。
後知恵ではなんとでも言えるが。環境の変化をその最中に理解するのは難しいことかもしれない。一歩先を行くような選択が望ましいと言える。しかし、人の先を歩くのはリスクもあるのだが、停止して一貫性のテープを回し続ける選択もリスクなのだ。
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