ロブ・ホールは衛星電話で妻のジャン・アーノルドと通話していました。
1996年5月11日18:20
ジャン「私がどれだけ心配しているかわからないでしょうね?」
ロブ「この高度と周りの様子からしたら、まずまず快適だよ。」
ジャン「足の具合はどう?」
ロブ「ちょっと、凍傷になっているかもしれない。」
ジャン「家に帰ってきたらあたしがすっかり直してあげる」・・・
「アイ・ラブ・ユー。しっかり寝るんだよ。マイ・スイートハート。そんなに心配することはない。」
この言葉を最後にもう誰一人、ロブ・ホールの声を聞くことはなかった。
ロブ・ホールはエベレスト登頂を目指した著名な営業登山隊の隊長でした。しかし、遭難して、極寒の山頂付近からはるかかなたのニュージーランドにいる妻への決別の電話でした。死を目前にした極限状態の中で妻に対する思いやり。妻も、かってともにエベレストに登頂した経験があり、夫が決して生還しないとわかっている状態での会話です。私はこの一節を読んだだけでこみ上げて来るものがありました。
この話を最初に知ったのはビジョナリー・カンパニー3。それは、モトローラが開発したイリジウムの失敗について語っている部分でした。エベレストの山頂くらいでしか使えない衛星電話だということなのです。しかし、著者のジェームズ・コリンズはそのためだけに使ったのではないと思います。
ロブ・ホールの営業登山隊に参加したジャーナリストのジョン・クラカワーは登頂に成功した6名の中の一人でした。生還したのはクラカワーを含めて2名だったのです。日本人の難波康子さんも遭難し、国内でもこの遭難事故は大きな話題になりました。
クラカワーが書いたのが INTO THIN AIR(邦題 「空へ」)
登山の第一人者であったロブ・ホールがなぜ、途中で引き返す判断をしなかったのかと言う点が様々に論じられてきたようです。クラカワーは「不遜」と書いています。
私は遭難したダグ・ハンセンに対するサンクコスト(埋設費用)の問題が大きかったのではないかと思いました。
ダグ・ハンセンは95年にもロブ・ホールの営業登山隊に参加しましたが、結果として登頂を果たせずに下山しました。どういうわけか、その後ロブ・ホールは10回も電話し、費用をレスしてまで彼を96年のツアーに参加させました。
そして、ダグ・ハンセンは再度エベレストに挑戦します。しかし、山頂を目前に、自身で体力の限界を感じて下山しようとするダグ・ハンセンに対してロブ・ホールは登頂を促し、結果として彼を登頂させます。しかし、結果として予定下山時刻を大幅に過ぎてしまい、嵐に遭遇してしまったのです。
クラカワーは登頂時の感想をこう述べています。
「エベレストの頂上に立ったら、それをきっかけに強烈な昂揚感がこみ上げてくるはずだった。ついに私も、さまざまな不利な条件を克服して、子どものころから密かに狙っていた宝物を手に入れた。だが、じつは、頂上は単なる折り返し地点に過ぎないのだ。自分を誉めてやりたいという気持ちなどどこかに消し飛んで、行く手にはまだ長く危険な下降が横たわっているのだ。という思いにわたしは圧倒されていた。」
エベレスト登山の死亡率はなんと25%
1921年から96年までの登頂者630名に対して死者は144名に上るそうです。
数字からすると、ロブ・ホール隊の遭難は特別なことではないような気がします。経験を積んだ登山家でも厳しい自然環境とその変化は計算できず、天候が良いときは成功して、そうでないときは失敗する。自然の力の大きさからすると、成否はほとんどたまたまだと言えるのではないでしょうか。
なぜ、エベレストに登るのかという問いに対して、「そこに山があるから」と答えたレイ・マロリーは1924年に遭難しました。しかし、そのコピーで名前を覚えられています。1996年、最期を前に無線とイリジウム衛星電話によって妻と話をすることができたロブ・ホールはやはり、それもあって名を残こすことになるでしょう。
追伸:野口健さんのブログにエベレストの記事があります。放置された遺体など生々しい
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