「太平洋の奇蹟」という太平洋戦争を扱った映画が近々上映されるということは、少し前から知っていました。
しかし、ある方のtwitterからその主人公である大場栄大尉が豊橋の第18連隊の所属であったことを知り、豊橋の住民として興味が湧きました。
そして、第18連隊の歴史を調べてみると、北支からグァムに向かう途中で輸送船崎戸丸が米潜水艦に撃沈され、3,800名中、2,000名を太平洋に失ったこと。本来グァムへ向かうところが、救助された駆逐艦に乗って第一大隊はサイパンに到着してしまい、グァムに向かう前に米軍が来襲してサイパンで戦うことになったことなどを知りました。
豊橋、移送途中の撃沈、予定外のサイパンでの戦闘、そしてこの映画...
そこで、原作である「タッポーチョ」を読んだ上で初日の映画を見てきました。
太平洋の孤立した小さな島嶼における戦闘は米軍との兵力・物量差に加えて制海権と制空権を持たない日本軍には全く勝ち目のない戦闘でした。
制海権・制空権がなければ、弾薬・食料・飲料水などの補給ができず、戦闘は継続できないのです。勝負は初めからみえているのです。
いずれにしても勝てないと決まった戦への作戦の選択肢は、三つしかありません。第一は、降伏する。第二は、米軍の砲火の前に突撃して玉砕する。第三は、陣地に立て籠もって持久するです。
太平洋戦争における日本軍では、敗軍の中においても降伏する将兵が極めて少なかったのです。これは、戦陣訓(「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」)の影響が強いと言われています。
大場大尉の隊は、積極的に米軍を攻撃したというよりは、戦闘を避けて隠れて持久したといえるでしょう。戦闘は米軍が向かってきてやむを得ない場合だけでした。戦闘を避けて逃げ、そして、最後に降伏しました。
大場大尉の凄みを一言でいうと、降伏する勇気です。特に戦陣訓の浸透した日本軍の中において
大場大尉はリアリストであり、自分の判断を信ずる勇気があったのでしょう。降伏直後にジープに乗って歓迎会に赴く大場大尉の写真には笑みすら見えるのです。
おそらく、誰もがバカバカしいと思っても、従うのが普通であった帝国陸軍において、そうではなかったという点です。
玉砕、自決、ばかばかしい...
「生きたい...ただ生きるために」が、誰もの本音です。
その点において、兵士の本音をきちんととらえていたのではないでしょうか。誰であっても、機関銃の銃口に向かって自殺的な突撃や自決はしたくないものです。その気持ちを掴んだ指揮によってうまく敗軍を統率できた。
しかし、当時の空気としては、その本音を表だって口に出すのはまずかった。
だからこそ、降伏するにも一応上司の命令書を要求し、命令で降伏するというステップを踏んでいます。
終戦の8月15日を大幅に超えて12月1日に降伏。これだけすばらしい長期持久があるでしょうか。
そういえば、「硫黄島からの手紙」も栗林忠通中将が玉砕を求める部下を制して持久に徹し、時間を稼いだ姿を描いています。沖縄戦も現地の第32軍の方針は長期持久でした。
ペリリュー、サイパン、硫黄島、沖縄などの戦闘が、天皇が降伏する決断をする時間を稼いだと考えることはできないでしょうか。そのおかげで、本土決戦が避けられ、日本が焦土と化すのが防げたのです。ここに我々が生を受けているのもそのおかげだと思います。
かねてから、サイパンで日本軍と戦った著者のみならず、戦士としての日本兵の優秀さは数々の敵から指摘されています。しかし、逆にそれを日本人自身が知らない。ここに大きな問題があると思います。
負けたからすべてが悪いのではないのです。将来のためには結果だけではなく、プロセスが大事です。本書は再度日本と日本人を考え直す一つのきっかけになるでしょう。
戦後、連合国が日本に軍を持たせないようにしたのは、日本兵が怖いからです。さらに、A級戦犯を作り、国民は悪くないが、指導者が悪かったなどという徹底的な思想教育をしました。
もう一度、怖い(尊敬される)日本人にならなければなりません。
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