「新たな発見、行動は境界面に現れる。」
ヴィクター・パパネック
21世紀に生きる我々にとって、蒸気機関といわれて連想するのは、蒸気機関車(Steam Locomotive の頭文字をとって、SL(エスエル))ではないでしょうか。さらには、蒸気船。昨年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」にも出てきたペリーの米国東インド艦隊の旗艦であるサスケハナ号などです。
1712年、ニューコメンは、鉱山における湧き水を汲み出すポンプを動かすために蒸気機関を実用化しました。その後、1769年にジェームズ・ワットが熱効率のよい蒸気機関を開発しましたが、相変わらずその用途はポンプに限定されていました。
しばらくの間、ポンプ以外にその蒸気機関の使い道が見つかりませんでした。現代の我々が普通に思い起こす乗り物の動力としての蒸気機関ではなく、蒸気機関イコール ポンプだったわけです。
その後、世界初の蒸気船であるフルトンのクーラモント号のニューヨークにおける初航海が1807年ですから、ワットの蒸気機関開発後38年。スチーブンソンのストックトン・ダーリントン鉄道を走った蒸気機関車ロコモーション号の完成には実に56年の年月が必要だったのです。
開発期間が長かったというよりも、蒸気機関を乗り物の動力に使用するというアナロジーが利きませんでした。
発明や変革は、従来からある知識のアナロジーによって生じるとされていますが、先ほどの蒸気機関の例のように、鉱山におけるポンプと移動の手段である馬車、帆船との間にアナロジーが生じにくかったのでしょう。
パパネックは、「新たな発見、行動は境界面に現れる。」と書いています。
「生きるためのデザイン」はデザイナー向けに書かれたのかと思いきや、仕事に携わるすべての人に当てはまる普遍的な考え方でした。
そのスタートは、あまりにも大きく複雑になった現代社会。
人間は自らを理解することも、新しい事象にどのように対応したら良いかも分からない状態。
そのために、仕事はますます細分化され、人間は自分の専門分野に追い込まれています。
専門家は自分の専門分野に口を挟まれるのをいやがり、他人の領域には無関心となりがちです。
しかし、もともと人間は、道具を使うことによって、なんでもできる万物の霊長だったはずです。
それが、専門分化することによって、人間は万能の動物から絶滅への道を辿ろうとしていると言います。絶滅した生物は行動が専門分化したものが多いというのです。行動が専門分化して、応用が効かなくなると、変化について行けなくなる可能性が高くなるからです。
馬車や帆船を専門としている人にとって、先ほどの蒸気機関はどうだったのでしょう。鉱山とそのポンプは、自分の専門分野とはまったく領域が異なっており、境界面の遙か彼方にあったと考えていたというのは想像に難くありません。
では、どうして境界面を超えられたかというと、
蒸気機関車の場合は、ジョージ・スチーブンソンが、炭鉱における機関夫の子として生まれ、蒸気機関を知悉していたことがありました。蒸気船は、発明家であったロバート・フルトンが、ナポレオン戦争に際して、史上初の潜水艦(手動式)の売り込みを失敗したことが、そのきっかけであったようです。
両者ともポンプと手動式の潜水艦から、蒸気機関車と蒸気船へ境界面を越えています。
パパネックは、デザイナーの役割は、そのような専門分化した様々な領域を、非専門的かつ相互作用的に視野を広げて、専門家の通訳をすることである。としているのです。
境界面を越えるという表現でも、なくすという表現でもいいでしょう。
いずれにしても自分の専門領域を超えていかないと発見・進歩はないということです。
さらに、それは「どれ一つをとっても、それ一つで解決できる問題はない」ということからも言えることなのです。システム全体を通じてデザインを考えるべきであることを強調しています。
細分化された仕事の専門家だけでは、複雑に関連した現代の諸問題を単独で解決することが困難な場合が少なくないというのは当然でしょう。
オーガナイザーもデザイナーの大きな役割です。
また、境界面の乗り越え方については、著しく相互作用的でなければならないとしています。他の境界面に対して、一方的なメッセージの伝達では何も伝わらないということです。相手の反作用を待ち、相手の変化によってこちらの対応を変えていく。それを相互作用的と言っています。
最後に、
パパネックは、境界面を乗り越える必要性を非常にわかりやすいメタファーで説明しています。生き延びるためには、この境界面を乗り越えないとなりません。
「男女の性行為が2つの境界面における本源的な出会いとして、性行為が賛美される。」
生まれてくるのが、新たな生命であるとすると、まさに境界面は乗り越えなければ 、それはあり得ないことです。
(追伸)
本書は1974年の出版ですが、すでに環境問題にも触れて、所有することから効用の使用(シェア)へ価値観を移行することを提案しています。
住宅ローンで購入した住宅は抵当が設定されており、所有しているようで、実は自分のものではない。
モノの所有欲に限度はない。モノを所有しても、さらにモノが欲しくなる。
結局、モノを所有しているのではなく、モノに所有されている。と現代の消費生活を揶揄しています。
パパネックはずいぶん先の見える人だったのですね。
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