「夷人はその性、貪婪、こちらが一歩後退すればかならずそれにつけ込んで、一歩踏み込んでくるでありましょう」
と林則徐が予見したごとく、一歩の後退が、さらに激しい列強の侵略を招く結果となったのである。
茶の話を追っていたら、アヘンに辿り着きました。
英国は中国からの輸入する茶の代金に大量の銀が必要となりました。英国は中国に輸出できる物資がなかったため、銀の地金で茶を取引するしかなかったのです。
英国は様々な工芸品などを売り込もうとしますが、中国は物資に溢れ、英国製品を必要としなかったのです。
しかし、そのまま貿易赤字を続けるわけにはいかなかった英国は、麻薬であるアヘンをインドから中国に持ち込むことでその不均衡の解決を図りました。
彼らは富のためなら何でもする人種であることを如実に現す史実です。アジア人はそこまでしてと思ったのが運の尽きでした。自分のレベルで相手をみてはならないのです。
アヘンの大量密輸によって生じた問題は、アヘン中毒者の増大もありましたが、そんなことはどうでもよかったのです。
一番の問題は銀の英国への流出にともなう銀の枯渇と、その結果としての銀の急騰による実質的な増税による庶民の困窮でした。納税は銀で行われましたが、普段流通している通貨は銅であり、銀の高騰によって銅が安くなり、銀建ての税金は変わらないにもかかわらず、銅による納税金額は急増したのです。
皇帝は林則徐を湖広総督として送り込み、アヘン問題の解決を託しました。
林則徐は厳格かつ実務的な方法で広東におけるアヘンを没収し廃棄しました。皇帝は喜び、欽差大臣に任命して引き続きアヘン対策を任せました。
しかし、結果としては帝国主義中の帝国主義の英国が開戦。軍事力で中国を押さえつけます。
北京のお膝元の天津近くまで英国艦隊が遊弋するようになると皇帝は動顛してしまい、我が身を守るために皇帝は林則徐を更迭し、流刑とした上で、英国に大幅に譲歩して香港などを割譲したのです。
林則徐は表面上不服を唱えずに流刑に服そうとしましたが、林則徐をよく識る王鼎は皇帝に処分の撤回を求めます。
流刑地に流される途中で堤防の修理の監督をさせて流刑地域の時間を稼いだり、皇帝の側近で林則徐を流刑に追いやった者と皇帝の前で言い争ったりして抵抗します。
しかし、皇帝は一向に王鼎の意見に耳を傾けませんでした。
王鼎は史魚の故事にならって自宅で自ら首を吊って死にます。
王鼎の死は林則徐の処分の変更にも、皇帝の反省にもつながりませんでした。
「何をもって敵というのか?」
映画「レマーゲン鉄橋」でロバート・ヴォーン扮する独軍クリューガー少佐が銃殺される前につぶやいたことばを思い出しました。
第二次大戦末期にライン川にかかるレマーゲン鉄橋を死守してたにも関わらずヒトラーの命令により銃殺されたのです。
組織の終末期...
王鼎は義憤で死にました。
死んで皇帝が悔い改めたという史魚の故事は本当なのでしょうか?
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