「そこが重要なのだ。理由があって発狂するのでは何の面白みもない。そこがわしの行いの洗練された部分であって、理由もなく的を外れたことをすることにこそ意味があるのだ。」
ハムレットは父の仇を取るために狂気を装いました。しかし、クローディアスにそれが見抜かれ、英国への渡航中に暗殺されかかります。
ハムレットは狂人を演じ切れなかったと言えます。その結果として宰相のポローニアスを誤って殺してしまい、最愛のオフィーリアを発狂(これは本当の)させ、死に至らしめます。
その意味でシェイクスピアが描いたハムレットは中途半端な狂気が生んだ悲劇だとも言えます。
一方、セルバンテスの狂気は半端なものではありません。
ハムレットに対するドン・キホーテには仇がいるわけではありません。
50歳近い郷士であり、妻子もなく、食べるのに困っていたわけでもありませんでした。なんら発狂しなければならない理由は見あたらないのです。
少なくとも外からは...
ただ、彼の内側から狂気が迫っていました。
その内側とは、彼が伝説の騎士アマディス・デ・ガウラに惚れ込み、とことんそのマネをしようと決めたというだけのことです。
退屈な人生の中で何かをしようと決めることが重要です。
何も決めなければ、習慣の奴隷である人間は昨日、先週、先月、昨年と同じことを繰り返しているだけでしょう。
ドン・キホーテは、よりによって伝説(ありえない話)の騎士アマディス・デ・ガウラの再現を自らしようと決めてしまったのです。
伝説に出てくる巨人や怪物、お姫様は浮き世(小説は浮き世ではありませんが)に存在するはずもありません。
だから、発狂でもするしかないのです。
風車を長い手をした巨人として突撃した有名なエピソードがありますが、
風車を退治すべき巨人に見立てなければ、一生遍歴していても巨人に出会うことはないでしょう。
冒頭の独白にもあるとおり、狂気は当初演出された(ドン・キホーテの自作自演)のかもしれません。しかし、狂気を演じているうちにそのものに習慣化し、それが人格にまでなってしまうこともあるでしょう。
このような例は歴史上いくらでもあると思います。
いや、むしろ、狂っているくらいでないと何も変わらないのかもしれません。
狂おうと決めたラ・マンチャ地方のある村の郷士アロンソ・キハーダは形から入ります。
自らの名をドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャとし、彼の痩せ馬はロシナンテ。騎士になくてはならない想い姫に百姓娘のアルドンサ・ロレンソをドゥルシネア・デル・トポーゾとしました。
これに従者のサンチョ・パンサが加わります。
狂気の旅の始まりです。
狂気と才気は紙一重。
何をもって狂っているというのか?
私も従者の一人となったつもりで...牛島信明氏の訳全6巻を読み進めていきます。
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