原題はComplications(複雑性)
「実際に治療する医者は、知っていることについてではなく、知らないことについて判断を迫られる場面の方が圧倒的に多いことに気づくようになる。
医学の根本には、常に不確定がある。だから、患者と医者が賢明な選択をできるかどうかは、その不確定をどう扱うかで決まる。」
本書は外科の研修医であったアルツゥール・ガワンデが描く病院内の様々なケースです。どれも選択を考えるケースとしては非常に具体的で臨場感があります。(訳もすばらしい)今回は数あるケースの中で、終末にあるガワンデの選択を受け入れなかった患者と受け入れた患者の対称的な2つのケースについてふれてみたいと思います。今回着目したのは、選択した行動とそれから導き出された結果を評価するタイミングです。
一つ目は年配の女性のケース
1913年より前に生まれたといいますから、かなり年配の女性だったのでしょう。
彼女は担当医であるガワンデに腹部に焼けるような痛みと、それが背中の方まで広がっていると訴えました。また、最近腹に大動脈瘤が見つかったと...
腹部を触診したガワンデはその動脈瘤を発見し、破裂寸前だと確信しました。
そして、彼女が生き残るためには手術をしなければならないと。
しかしながら、手術が成功したとしても、集中治療室における長期の入院、その後に養護施設への入所、腎臓が機能しなくなる危険が高く、しかも手術による死亡率は少なくとも10から20パーセント…
ガワンデは手術を提案しますが、患者は即断できず、15分後に診察室に戻って来てこう言いました。
手術はしません。家に帰る。
もう遺言状も書いたし、余命もコーヒースプーンで測れるほどしか残っていないと。
患者は医師の提案を退ける選択をしたのです。
数週間後、ガワンデはてっきり患者である母親は亡くなったと思い(それだけ診断した当初の確信が強固だったのでしょう)、息子がどう過ごしているか様子を聞こうと息子に電話をかけました。ところが元気に電話に応えたのは、なんと亡くなっていたはずの患者であった彼の母親その人だったのです。
彼女はガワンデの予測に反して、その後1年以上生きたといいます。
もう一方は
23歳のエレノア・ブラットンのケース
足がふくらはぎの上まで赤く腫れ上がって、熱は39度を超えていました。
当初の診断は蜂巣炎。黄色ブドウ球菌が引き起こす感染症で米国では年間300万件も症例があるそうです。しかし、これはさほど治療が困難な感染症ではないようです。
通常であるならばその診断で不思議はなかったのです。しかし、ガワンデは壊死性筋膜炎を疑いました。それは、たまたま2週間ほど前に壊死性筋膜炎で亡くなった患者を担当していたこともあったからです。この感染症は全米でも年間1000件程度しか発生せず、この症状になるのは25万人に一人という極めてまれな感染症でした。原因がよくわかっておらず、A群連鎖球菌が原因だと考えられていましたが、死亡率は実に70%。有効な抗生物質は見つかっていませんでした。
ガワンデは可能性は低い(5%)と思ったものの、患者と父親の抵抗感を押し切り、念のため組織の病理検査を行いました。組織の病理検査とは当然のことながら、その必要性と、もしそうだった場合の処置を説明した上で同意を得なければなりません。そして、足の組織を切除して病理検査した結果は恐れていた壊死性筋膜炎でした。そして大がかりな手術となりました。片足の切断もやむを得ないとされた状態でしたが、4日4回に渡り壊死した組織を切っては除菌し、切っては除菌を繰り返しました。幸い足は切断せずに残りました。
手術から1年後にガワンデはエレノアと再会します。
彼女は数ヶ月の理学療法ののち歩けるようになっていました。以前は弁護士事務所の勤務でしたが現在は保険会社にアシスタントとして職を得ていました。
ふくらはぎの肉を根こそぎ削り取るような手術だったため、太ももから15センチ×10センチの皮膚辺をふくらはぎに移植していました。ガワンデはその手術痕を見せてもらうと、美しく見えたといいます。
エレノアはこう語ったといいます。
「ある意味、ずっと強くなったと思います。」
「使命感のようなものを感じます。私がこうやって生きてここにいるのは理由があるに違いないって」
「それに。一人の人間として前より幸福だと思います。」
前者のケースはガワンデの提案を患者が選択せず、結果がよかったケース、後者は、ガワンデの提案を患者が選択して結果がよかったケース。
医師の提案した手段の採否は異なりましたが、患者にとっての結果は良かったケースでした。
かならずしも医師の判断が正しいとはいえない現実。何をもって良い選択というのでしょうか?
よい選択であるか否かはその判断のタイミングによって異なるのだと思いました。
結果がでてから後知恵で言うのは誰にでもできます。問題は結果を出すためにあらかじめ選択する行為なのです。
後知恵ではない選択を前提とすると、与件において合理的で「良い選択」であると判断された選択は、すでに取り巻く環境の複雑性と自己の狭い経験をベースにした直感に大きく左右されています。
ですから、その当時の「良い選択」が「よい結果」を導くとは限らないのです。
「良い選択」だと思われたものが「悪い結果」をもたらすこともあるし、当時「悪い選択」と思われたものが「よい結果」をもたらすこともありえます。
それに、そもそも、よい結果というのが、誰にとってどのタイミングでどのような状態であることを指すのかが問題なのでしょう。実は「よい結果」も時間とともに変遷していく可能性があるのです。
エレノアのケースでは、25万分の一の確率でしかない感染症のために組織の病理検査をすることなく、足が元通りになるとすれば、手術前の「よい結果」というのは手術をしないで直るケースだったのです。しかし、手術後に判断してみると、「よい結果」は手術をして足にあざが残り、職を失っても生きている、手術前には「悪い結果」だと思われたことだったのです。
よい選択をしてよい結果を勝ち取るためには、誰にとって、いつの時点で、どのような状態であるのかということを幅広く考えてみた方がいいでしょう。ただ、現実にはダニエル・カーネマンのいうシステム1が時間を掛けずに決定してしまうのでしょうね。ですから、システム2が登場する仕組みを常日頃から意識しておかなければなりません。と言っても簡単ではないのですが...
でも大丈夫なのです。
いづれを選んだとしても、人は自分の選んだ選択は結果としてよかったと思うのです。
これは、「よい選択」と「よい結果」をいつ判断するのかということによります。ここで注目すべきは、人が評価するタイミングは事後であって行動を選択する時ではないということなのです。
「心理的免疫」と言い換えることもできます。良かれ悪かれ、心理的免疫は現在の結果を「よい結果」と判断し、その前提となる行為を「よい判断」とすることによって自己を守るのです。
エレノアは大きな傷を負い、職を失いましたが、今幸福だと言っているじゃないですか。
老婦人も自宅に帰ってそう思ったことでしょう。
ガワンデはこう書いています。
「とはいえ、不確定と向かい合ったとき、何らかの判断を下すこと以外 医者として、あるいはもっと言うなら患者としてできることは何もない。」
繰り返しになりますが、人は自分の選択の結果を事後に受け入れることができる能力を有しています。
どちらの道を選択しても、よかったと思えるはずです。
<TEDにおけるガワンデ>
ビットクルーとチェックリストの話は本書の発展型です。
本書でヘルニア専門病院として取り上げられていたショルダース病院を参考にまで
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