「この地上で、われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制に反逆できるのである。」
時々、一般的ではない選択を強く指向することがある。一般的ではないのだが、やけにその選択に自信がもてる。一般的な方向の選択にはなにか自然の、習慣的な、動物的な臭いがする。一方、その他の選択を指向する際はさしたる根拠はないのだが、選択に喜びを覚えることが少なくない。それが何に由縁するところかわからなかった。また、その選択のしかたの適否はわからなかった。
人間とそれ以外の動物の違いは何であろうか。あるいは取り立てて違いはないのか。selfish(利己的な)なgene(遺伝子)は自己複製子であり、進化は自然選択(淘汰)の課程においてだけというのが、ダーウィン以降の生物学であったようだ。当然、自然選択における進化には何万年もの時間コストがかかっている。しかし、ドーキンスは「利己的な遺伝子」において自己複製子gene(遺伝子)に並立させて、進化の要因として人間の文化、すなわち模倣があるとした。それを、ギリシャ語の模倣という意味のmimeneから取ってmeme(ミーム)と名付けた。
この長編の冷たい自己複製子(遺伝子)の宿する個体(動物)の物語を聞かされて、そんなものなのかと半ば納得してしまっていたことを告白せざるを得ない。しかし、その後にドーキンスは反論を恐れずに実証のできないmeme(ミーム)の概念を提唱してきた。シンプルなダーウィニズムをその継承者を自負するドーキンス自身が発展させたところに納得感があるのか。
記憶、模倣がもう一つの自己複製子であるというのはサプライズだ。確かに遺伝子は親子の関係でも50%しか残らず、子孫が残ることが必ずしも自分の遺伝子が残るということにはならないことからも、この考え方は自己複製子を残したい動物にとっては救いとなる。人間の人間たる由縁はドーキンスのこの主張によって納得感のあるものとなる。しかしながら、meme(ミーム)のない人間は動物なみと言われてもやむをえないという厳しい面も持ち合わせている。
「宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在しなければならなかった唯一の実態は、不滅の遺伝子である。」そのとおり、生物の存在はgene(遺伝子)だけかもしれない。しかし、人間だけはただの生物だけではない、あるいは他の動物との生存競争に打ち勝ってきた人間の遺伝子のひとつがmeme(ミーム)だったのか。
gene(遺伝子)だけでなく、meme(ミーム)と併せて長く生きるというのは生物としてのただの動物ではない人間として正しい選択であると思う。人間の成長発展はまさに自己複製子としてのmeme(ミーム)であり、ドーキンスに言われるまでもなく、先人はそのmeme(ミーム)を我々に残し続けたのである。
記憶、模倣が遺伝と同格であり、人間固有のものであるとするドーキンスの主張は立証を求めることなく、同意できる。記憶・模倣の上に「進化」があり、それはクロマニョン人が人間に進化する以上の進化を人間にもたらしたのだ。
如何に記憶(先人の知恵の確認)と模倣が進化に重要であるか。自己複製子を残すことに生物が躍起になる理由も。さらに自己複製子は子孫という形で残るだけではないことを。
meme(ミーム)を自己複製子として選択することは必ずしも容易ではない。でもチャレンジしたくなる。自己複製子を残したい動物としては
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