自分しか知らないこととHappy ending
自分しか知らないというのは実に痛快というか気楽な状態だ。
情報を秘匿(自分自身の中に囲い込んだ状態)しておくと、内容が何であろうと、当然のことながら他人にはわからない。人に知られなければ、その領域は自分にとって自由で安全だ。。あえて自分を井戸の中の蛙としているのであり、よそ者が井戸に進入しない限り安全なのである。
しかし、その気楽さは実現という点から考えると、実現しない状態とのトレードオフになる可能性が高い。秘匿された意図は実行に移される可能性が低いから。
「目標」(意図)となるために二つの条件が必要だと教えられたことがある。
第一は書くこと
第二は宣言すること(人に言うこと)である。
実現する「目標」とするためには意識的に書いて人に宣言した方がよい。また、漠然とした破線を実線にするためにも書くことが効果的といえる。そして、人に知られると、より実現に近づくことになる。
「目標」にもいろいろある。明るい将来に関するものが一般的だが、こんな目標もある。
自分自身の終わり方に関する目標だ。
Happy aging もくしくは Happy ending と英語表記した方がイメージが湧きやすいかもしれない。
始めることは簡単だが、終わらせるのは意外と難しい
人は意図的に生まれてくることは不可能だが、「死」は自ら意図して迎えることができる。自殺をするという意味ではなく、死を予期してそれを準備することができるということだ。「死」は意図して迎えることができるために却って様々な問題を引き起こすことになる。
動物であれば、谷間で気づかれずにのたれ死んでもいいだろう。人はそれでは耐えられない。それなりのendingを迎えたいと考えるものだ。それは死んでも強く人の目を気にする習性をもった動物だから。それはなぜかはわからない。最終的な自己実現なのかもしれない。
「死」は自分だけではコントロールできない。死ぬまでに想定できる阻害要因が数多くあり、自分が想定した死に方ができない可能性がある。Happy ending に向けての選択が必要とされる。
特に問題となるのは、自分自身の死に方と他人に対する配慮である。いづれも、自分に対する名聞に関する問題。たとえば、ポックリと逝くつもりが脳梗塞で意識不明のまま生き続けてしまう。などというのはいかにも恐ろしい状態だ。意識がないままに、オシメを他人に交換してもらいながら肉体だけ生き続ける...
また、ポックリ死んだのはいいが、預金通帳の保管場所も暗唱番号も、借金の残高も、愛犬の面倒をどうするかも遺族、周囲の人々に何も知らせなかった場合。残された人々はどれだけ大変だろう。そのような状態で故人をどう思うだろうか。
Happy ending とするために書き留めてオープンにしなければならない情報がある。「死」に向けて誰もが準備し選択しなければならないことがある。
「もしもノート」は自分の生涯をHappy ending とするためのシナリオであり、自分自身の遺言である。
その内容は多岐にわたる。それは当然であろう。数十年の人生の総括であるから。まだ、若いからというのは気休めだ。いつ何が起こるかわからないから
「もしもノート」はNPO法人ライフ・アンド・エンディングセンターが提供している「死」に向けての危機管理のデータベースである。
内容を記入とすると、Happy ending を阻害するリスクに気づかされる。
お金の問題だけではない。PCに残されたデータ。認知症になった場合の意志能力のない自分への対処。延命治療の要否
自分で判断できない状態における自分の意思表示。書こうと思ってもなかなか書けない。今まで考えていなかった証拠だ。
自分の終わり方を意図的に迎えるか、出生と同じように無意識に迎えるか。それは本人の選択の問題。何が自分にとってのHappy ending なのか?
「もしもノート」は社会に共存する仲間が尊厳をもって自分を終えることを考える端緒である。
「もしもノート」はNPO法人ライフ・アンド・エンディングセンターが販売している。一度内容をみてみる価値あり。
Happy Ending!
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