美しい谷における美しい家族の物語
なぜ、この映画をまた見てみようと思い立ったのだろう。
いまだにわからないのだが、ある他のタイトルを見ようと思ってレンタルショップに行った際に「わが谷は緑なりき」を突然見てみたいと思った。そう思った理由は今考えてもわからない。変な話だが、そのうちにわかるかもしれない。
1941年制作のこの映画を見るのは50年の私の生涯で今回で3回目になる。最初見たのは私が小学生、たぶん4年生以下だと思う。家のTVでおそらく「日曜映画劇場」淀川長治の解説で見たのではないかと思う。今、淀川長治と聞いてわかる人がどれだけいるかしら。日曜の夜だったので、家族全員で見ていた。当時TVで放映される洋画は庶民にとって貴重な娯楽だった。この映画はモノクロだが、当時のTVは白黒だったので、映像に何の違和感もなかった。そんな時代だった。
この物語はヒューが50年間暮らした谷に別れを告げるシーンから始まる。ちょうど今の私と同じ50歳だったわけだ。母のショールに自分の靴や洋服をくるんで。残されたのは、寂れた石炭鉱山の町。
しかし、ヒューが幼かったころは、石炭は産業の基盤で町は隆盛を極めていた。人、人、人。人口の多さがそれを物語っている。そんな町における家族の物語がハイテンポですすんでいく。
今でも忘れないのが、7人兄弟の末っ子のヒューが学校の先生に鞭でたたかれるシーンだ。当時の私はあふれる涙を周囲の家族に悟られないように必死でこらえていた。しかし、指でぬぐわなければどうにもならなかった。
モノクロではあるが、緑であろう山、谷、白い水仙など「わが谷は緑なりき 」の邦題の通り、目にしみる美しさ。鉱夫といっても帽子とステッキで散歩し、マナーには厳格な家庭だ。夕食には大きな肉のかたまりがあり、家族にサービスされていた。暖炉に安楽椅子。当時の英国の豊かな庶民の暮らしが垣間見れる。
しかし、それはいつまでも続かない。
兄弟の中で唯一人学校へ進学して、総代で卒業したヒュー。しかし、彼は弁護士や医者になるのではなく、父や兄弟と同じく鉱夫になる道を選択した。なぜなのか。それはわからない。しかし、わからなくても問題はない。なぜなら、本人が鉱夫になったら不幸となり、弁護士や医者になれば幸せとは限らないからだ。
ただ、今となっては本人の感想は聞くことはできない。しかし、この映画を見て、ヒューの人生を否定的に捉える人は少ないと思う。
職業の選択は自由主義社会の中で最も重要な権利である。我々は自由主義における誰でもいつでも可能な職業選択の自由をもっと有意義に活用した方がよいかもしれない。
50歳になって谷を出たヒューのその後はどんな人生であったのであろうか。でも、ヒューにとっては50年で充分だったのかもしれない。
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